熊野水軍 安宅一乱記

熊野水軍の雄 安宅一族の物語

和歌山県の紀南地方に、日置という地域があるのですが

旧家に古写本が伝わっていたことが発見されました

写本には熊野水軍の中核を担った安宅一族の戦いの物語が綴られていました

存在が知られていながら記録がほとんど残っておらず、幻の水軍といわれた安宅一族

これは彼らの戦いの物語です

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安宅一乱記のはじまり

鎌倉以前から熊野水軍は熊野三山と深く関係があり、強大な軍事力を持っていました

安宅家は9代当主頼春の時に初めて紀州熊野に本拠を置きました

その際に辺喜と大知の地名を日置と安宅に改め、自らの姓も小笠原から安宅に改めました

しばらく後に足利氏から安宅家に諸大名の手に余る四国の海賊退治の命令が下され

その時の安宅家当主だった安宅頼藤が海賊を討伐しました

(安宅頼藤は頼春の3代後の当主にあたります)

手柄を立てた頼藤は摩耶の城に籠る赤松氏の討伐にも一万三千騎を率いて出向いたそうです

1359年には幕府に功績が認められ正四位の位をもらいます

頼藤は阿波にも領地を持ち、頼藤の弟は隣の庄の周参見の名跡を継ぎました

頼藤の長男の近俊は阿波と熊野を居城とし、次男の安重は日高郡の領主、湯川庄司の一族と婚姻を結びます

こうして頼藤の時代に一大水軍安宅家の基盤が作られました

後代の安宅義瞬は那智山上ノ坊に入り安宅入道を名乗り、太地の和田氏と婚姻を結んだことでさらに勢力は拡大します

1452年、安宅直俊の時に紀伊国の国主、畠山氏の世継ぎを巡り小競り合いが起こりました

1463年に世継ぎ争いの相手方、畠山義就に組した上富田生馬の領主だった山本氏を攻めます

直俊の長男、実俊が家督を継ぎ、1507年に龍松山城に籠る山本氏を再度攻めました

1509年に安宅領と山本領の境界である蛇喰ノ森に要害を築いた山本氏を攻め、1513年に打ち破ります

1514年に実俊は山本氏の領地であった生馬領の地頭に命じられました

その後、義瞬が上ノ坊に入ってから代々名を継いできた関係から那智実方院と婚姻を結びます

そうして熊野水軍の魁師として安宅一族は栄華を極めました

1526年に安宅家棟梁の実俊が病死します

長男の安定丸はまだ幼く、実俊の弟の定俊が安定丸の成人まで家督を預かることになりました

こうして、物語が幕を開けるのです

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安宅一乱記プロジェクト

安宅一乱記は10巻を5冊に綴られた古文書写本です

昭和51年に東京大学の杉山博教授が訳され、長谷克久氏が編集し「熊野水軍資料 安宅一乱記」として出版されました

本来の古文書書体から楷書に訳されていますので読みやすい文章になっていますが

現代語に訳してもっと多くの人に知ってもらおうという取り組みです

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安宅一族の史跡

三段菱

安宅氏 家紋 三段菱